長野県150周年

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一人ひとりの学びたいをかなえる

子どもも大人も生き生きと学ぶ長野県

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長野県に息づく、学びへの思い

日本に公教育のシステムが整う以前から、子どもたちへの教育に熱心だった長野県。その思いの強さは、時代を経ても変わっていない。どのような環境が必要か、何を、どう教えるか―。教育に携わる人たちは、その時代ごとの課題に向き合いながら、学びのあり方を問い続けてきた。
多くの子どもたちが学び舎をにぎわせた時代から、人口が減少する時代を迎えた今、長野県の教育も、一人ひとりの願いに応え、多様な個性を輝かせることができる学びの姿を目指し、進化を続けている。

教育県の夜明け 寺子屋文化と「学びの共同体」

長野県が「教育県」と呼ばれるゆえんは、江戸時代にさかのぼる。当時の長野県には、全国的に見ても極めて多くの寺子屋が存在し、その数は1000を超えていたという。2025(令和7)年度の長野県の小学校数は350校余、中学校が190校余。この数字と比較しても学びの場は非常に多く、当時の人々がその身分に関わらず、教養を身に付けることに熱心だった様子がうかがえる。
そして明治維新を迎え、1872(明治5)年に学制が発布された時、長野県の人々が見せた学びへの熱意は驚異的なものであった。寺院や民家を教室として開放したり、校舎を新築するために、地域の人々が自らの生活を削って寄付をしたりして、子どもたちにできる限り良い学びの環境を整えた。
その象徴ともいえるのが、1876(明治9)年に完成した旧開智学校(松本市)だ。擬洋風建築の美しい校舎は建設費の7割が住民の寄付でまかなわれたといい、令和に国宝に指定された背景には、当時の住民たちの熱い思いも含まれていると見るべきだろう。他にも、佐久市の中込学校(1875年、国重要文化財)や、長野市の作新学校(1883年、市指定有形文化財)など、当時の住民の思いが詰まった学び舎が、現在に残されている。
信州教育の特徴は、単に知識を授けることで終わらない。地域の大人が子どもを見守り、共に学ぶ「学びの共同体」としての意識が、この時期に深く根付いていった。

「大正自由教育」の旗手として 子どもの主体性を尊ぶ

大正時代に入ると、画一的な教育への疑問から、子どもの個性を尊重する「自由教育」の運動が全国で巻き起こる。長野県は、この動きにおいても先駆的な役割を果たした。
特に有名なのが、上田市(旧小県郡)を中心に行われた「自由画教育運動」だ。上田を拠点に活動した版画家、洋画家で教育者の山本鼎(1882~1946年)は、手本の絵を描き写すのではなく、子どもたちが自分の目で見て感じたものを描くことの重要性を説き、子どもの感性や個性を尊重する教育を提唱。その動きは県内外に広がった。
旧制諏訪中学(現諏訪清陵高)の地理教師だった三沢勝衛(1885~1937年)は、教科書を使わず、自身の調査研究結果を使って授業を行い「自分の頭で考える」ことを生徒たちに促した。三沢が始めた太陽の黒点観測は、今も同校で続けられている。こうした教育は、現在の「探究学習」の原点とも言える。

「国策」と教育の重い足跡   満州移民の悲劇を越えて

自由や個性が重視された大正デモクラシーの時代から一転、昭和に入ると教育現場は「お国のため」の人材を育てる場となる。1929(昭和4)年に起こった世界恐慌で、養蚕への依存度が高かった農村部が特に大きな打撃を受けた。その中で政府は、満州(現在の中国東北部)への組織的な移民を促す。
この時、長野県の教育界は「新天地への希望」を語り、生徒たちを「お国のために頑張ってこい」と励まして、満州移民の推進役を担った。長野県は全国最多となる約3万3千人もの満州移民、そして数多くの「満蒙開拓青少年義勇軍」を送り出し、そのほとんどの人々が終戦前後、筆舌に尽くしがたい悲劇に襲われた。
命からがらふるさとに戻った人から、その苦難を伝え聞いた教師たちは「二度と教え子を戦場に送るまい」と心から誓った。それこそが戦後の「信州教育」の原点となり、「自らの足で立ち、自らの頭で考える」教育を目指す再出発となった。

地域と共に蘇る「自分の頭で考える」学び

戦後、教育界が求めたのは、抽象的なスローガンではなく、目の前にある「生きた現実」から学ぶことだった。遠く離れた場所にある正解を探すのではなく、自分たちが住む地域の自然や文化を直視し、そこから真理を導き出そう、との思いから、長野県独自の「郷土教育」が花開いていく。
その代表格が、100年以上の歴史を持ちながら、戦後の実践的な信州教育の象徴的な取組となっていった「学校登山」だ。明治時代に始まった学校登山はそもそも、高山の自然の観察や心身の鍛練を目的としていたという。戦中には鍛錬の側面が重視されたが、戦後は「自然への畏敬」と「科学的探究」の場として再構築された。
中学生が臨む学校登山では、事前に地質や気象、高山植物の生態を徹底的に調べ、自らの足で岩場を踏みしめる。つらい登坂の末に「日本の屋根」に立ち、そこで目にした郷土の山河は、教科書の中の知識ではなく、自らの体験として血肉化される。
郷土教育は、地域に伝わる伝統文化の継承の機会でもある。南アルプスの麓、下伊那郡大鹿村で300年以上にわたり受け継がれてきた「大鹿歌舞伎」は、その好例だ。村の子どもたちは、保存会の大人たちから直接指導を受け、舞台に立つ。難解な義太夫を覚え、独特の所作を身につける過程で、単なる「伝統の保存」以上のものを学ぶ。村全体が学校であり、地域が教育活動に参画し、一体となって子どもの学びと成長を支える光景は、現在注目されている「コミュニティ・スクール」の理想形とも言える。

令和の挑戦  一人ひとりの思いをかなえる試み

長野県の人口は、2001(平成13)年をピークに、減少に転じた。学校でも、1ク
ラスあたりの児童生徒数が減り、校内に空き教室ができ、山間部、都市部を問わず学校の統廃合も進む。そんな状況下、学校の中では、ある種の行動基準にもなっていた「みんな」の姿が見えづらい。学校に行きづらい子、来られない子はかつてより増えた。障がいのある子や、発達の特性がある子もいる。外国から来たばかりで、日本語がうまくできない子もいる…。一人の先生が、「みんな」に向かって授業をする、というスタイルでは、十分な学びの場とは言えなくなってしまっている。
この大きな課題に向き合う長野県の教育現場は、一人ひとりが自分らしく追求できる「探究県」を目指し、改革を進めている。代表的な取り組みが、2026(令和8)年度から本格化した「ウェルビーイング実践校TOCO―TON(トコトン)」だ。県内23市町村の公立小中学校、義務教育学校合わせて143校が実践校に指定されており、それぞれ独自の取り組みを展開している。
例えば、「異なる学年の子どもたちが同じ授業を受ける」「自分の好きなことを考える時間を設ける」「地域の人が学校の教育活動に参加する」といった学びのバリエーションを広げる試みもあれば、「子どもたち自身が学校のルールや行事を考える」「休み時間を長くする」「テストや通知表、宿題の在り方の見直し」「リアル&オンラインで自在に学び合う」など、子どもたちの心を学校や学びに引きつけようとする試みもある。

長野県では、学校教育だけでなく、公民館を核とした社会教育も長い期間をかけて発展してきた。地域課題を学び合う講座や住民同士の自主的な学習活動は、全国有数の広がりとなった。子どもだけでなく、大人も学び続け、その成果を地域に生かしてきたこともまた、学びを尊ぶ長野県を支えてきた重要な特徴の一つである。
教育の成果は、すぐに出るわけではない。ただ、一人ひとりの学ぶ意欲に寄り添い、なおかつ現場が疲弊せずに、持続的に取り組みを進めていく姿勢の先に、生き生きと学ぶ人々の未来が見えてくる。「長野県の学び」の灯は、この地で学ぶ人々から次の代、そしてまた次の代へと、絶えることなくつながれていく。